昭和43年07月01日 月次祭



 「思い上がるな、慢心するな。おごる心はおかげの破滅」と。これはただ今、御祈念を、月次のお祭りを奉仕する前に善導寺の久保山さんがお届けをされました。先生、ご承知のように私が、まあ華やかな性格でございますからとこう言うのです。先日の御理解を頂いておりましてから、それをしみじみ実感いたしました。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」と。
 これは合楽の信心の合楽の信心を語るというならまずこれ、合楽はこういう内容、性格をもっているんだ、ね。ですから誰でもねそれは華やかなおかげというものを願わない者はありません、ね。もうこれはもう誰だって、どんなに慎み深い人だってですね、やはりもう本当に華やかなまでのおかげを願わないはずがありません、人間である以上、ね。それを、まあ親玉が私ですよね。
 根が大体は商売人であるだけではなくて、そういう性格を持っているわけです。ですからやはり、類は類をもって集まるですから、ここにはそういう性情、または性格を持った人達が、やっぱり集まってきております。ですから華やかです、ね。先日からも若先生が大阪の方へ参りまして、もうそれこそ日本一と言われるような教会を何箇所も回ってまいりまして、それはその、ものすごいやはり御比礼である。
 けれどもお父さん合楽が日本一というのが一つあるっちゅう。それは何かちゅうたところがね、御神前の賑やかなこと、お供えが豊富であること。これはもうどこの教会に行ってもまずないとこう言うわけ。だからねこのお供え物が多いということもこれはなるほど、私の信心性格という、桜の花的なものですけれども。けれどもここの場合はその内容がね、辛抱をさしてもらう喜びを解らして貰い、ね、
 もう限りなく馬鹿と阿呆になって、とにかくここの信心はもう言うなら「はい」の一語から生まれたんだと私が申します、ね。ここのおかげがどうしてこういうおかげになってきたか。私がね、どんな場合でも神様の前に「はい」と言うた、言うてきたからなんです。だから「はい」の一字から生まれておる。それに、性格が桜の花的なもの、ね。「はい」と言うのが柳であるならば、ね、
 辛抱することの喜びが言わば梅の花であるならば、ね、そういう中身を通っての桜の花である。本当に親先生もう昔から自分で改まりたい、親先生もう原さんばっかりおごらなさらんで私もちっとは怒って下さいっち。もう原さんはよかろうて、あげんいつもおごられなさるけん。そげん言いなさいました。そして私にもぎゃふんち言うた所を私も言うて下さい。ところがあんた、言うとなると腹かく、ね。
 ところが今日はここで2人で話すことです。久保山さん昔はね本当に言いたいけれども、ただ神様に祈って私は言わなかっただけの事だけれども、あんたがそげん言うけん言うけれどもね、もう私はあんたに言わんですむようになったと私が言うんです。もうそれこそ、ある人は久保山の奥さんは孔雀のような性格と言われる、ね。しかも孔雀が羽を広げたような、例えばもうこの人にはお金どん沢山も出すなら。
 どう言う事をしでかすやら分からんちゅうごたるその、華やかな性格をもっておるだからね、久保山さんあんたがその孔雀の様な桜の様な性格がね、もう言わばあんたの言わば宝であり是が今後共に、久保山の家の宝にならにゃいけない。何故ってその内容がね。これはもうお父さんの久保山豊先生が、ね、もう梅の花の代表のように言うておられた。ああいう梅の花の信心辛抱の、お父さんのお徳を家内が受け継いだ、ね。
 そして最近では、辛抱しぬくことの喜びがだんだん分かってきた。これなら桜の花のそれを、私が今更こういうことがないじゃないじゃないか、もういよいよ、それはもう孫、子々孫々までもその桜の花の、あなた、久保山家のその、今まではめぐりと思いよったそれをです、ね、梅と柳と共に残していかなきゃいけませんよ。そこに私は桜の花のような華やかなおかげの約束があるのだと。
 皆さんだってもそうでしょう、ね。華やかなおかげの方がいいでしょうが。千円の着物を着るより一万円の着物ば着せてもらい、一万円の着物より10万円の着物でも、ね。着せて頂けれるぐらいのおかげを頂きたいでしょうが、ね。けれどもですこれに柳を頂かず、梅を頂かず、ただ、桜だけであったら困ったものである、ね。どうしてもこれはひとつの合楽の宿命。桜的な人が集まるということは。
 だからその桜的な集まってくる人達に、ね、どうでも、梅の花の信心辛抱をしなきゃならない、馬鹿と阿呆にならせて頂く、どのような場合でも、「はい」と素直に答えれるような柳の信心を、ね、ここで頂かなければならない、また、そういう教導を私がさしてもらわなければならない。それには私がいよいよ良い見本にならなければならないということになる、ね。皆さんも全部。
 ここで熱心であればあるほどの人は、皆、そこの桜の花的な、それだけであってはです、ね、華やかに咲くけれども散るのが早い。そこでです、ね。私はそのことをお礼申させて頂いておりましたら、ね、神様からひらがなと漢字混じりでこういうことを頂いた。今、私が一番に申しましたそういうことを頂いた、ね。「思い上がるな慢心するな、ね、おごる心は破滅のもと」と、ね。
 私共がですね、どうぞそういう桜の性情、桜的なものをもっておる人はですね、どうしてもそのおかげを頂くとです、ね、おごる心が生まれてくる。もうこれはもう自分で悲しいぐらいに出てくる、ね。慢心がない時であっても慢心が出てくる、ね。そこには、自ずと、やはり、人を軽う見るところの思い上がりが心の中にいつの間にか育っていきよる。私はその後、漢字で書いたものをお母さんにあげる。
 それでひらがなの方を半分切ってから、私が今日はそこの御結界のここんところに、これはどうでも桜の花のようなおかげをいよいよこれから頂いていかなければならんために、そういうおかげが、ね、あっという間に散ったと。一夜の嵐に、もうあくる日は、ね、見る影もないほどのみすぼらしいものになっておったというようなことのないようなおかげを頂くために、私はそこへ貼らせて頂いた。
 皆さんもひとつ心の底に貼っとかにゃいけませんよ、ね。なぜって今は皆さんがおかげを受けておりません。なら久保山が今桜の花のようなおかげを頂いておるわけじゃありませんけれども、ね、桜の花のような華やかなおかげを頂かせて頂くための信心の稽古が今こそできておる。そこで梅の花の信心をまたは柳の信心を芯から根から頂いて、久保山さんこれさえ頂きゃこれさえ守っときゃ。
 かげ落とさんですむよと言うてから、私が渡しました、ね。皆さんもどうぞその桜の花のような華やかなね、それこそ日本一的なおかげを頂かして頂くということはもう、決めとかなきゃいけません、頂くんだと絶対。合楽の者はそれが頂けれるひとつの、昨日の若先生のお話じゃないけれども、システムがある。そういう決まりがあると。おかげが受けられるという。
 今私御装束を脱がせて頂きよるとちょっと見てから秋永先生の腹がこげん大きゅうなっとるですもん初めて見た。いやあこの頃秋永先生の腹の大きいなったと(笑)。はらもうお腹が大きいなるとお腹がたまった、あのお腹がたまっとるじゃないですね。お金が貯まっとるじゃろうというふうに申しますでしょううん。やっぱ貯まる前提だと思うんですよね。もう本当にですよ私横から見てびっくりした出てきとる、ね。
 今日も2度目のお参りの時でした。佐田さん達が親子で参ってみえた。風呂敷を何かこう宝物出す様にして出しよりなさりますもん。何ば持って来なさったじゃろうかと思うておったらそれはもう見事な大黒様でした。この度ばかりの言わば床の間に置いて、飾っておけれる様な見事な三表の俵の上に袋を担いだ大黒様がこう、打ち出の小槌を振り上げておる本当にデザイン、あのもうデザインというかね格好のいい大黒様で。
 それがねもうあの神棚さんがいらんもんですから、神棚さんの整理をしよった。黒い神棚さん。ところが神棚さんの奥の方からこの大黒様が出て来らしゃった。それでお母さんと2人で話してから、ね、これは合楽の親先生に一遍見て頂いて、まあ言うならば御神事でも入れて頂いて、ね、これを親先生と思い、金光様と思うて、ね、今日から先生拝まして頂こうと思いますとこう。
 それはよかごと思いつきなさったですねって。そんならもうあなたとこには、もう玉串案、ね、八足、ね。八足の上に上げてそして本当に金光大神を拝まして頂く、取次ぎ者を拝まして頂く積りで拝まして頂きなさい。お互いの心の中に、ね、もう限りなく頂たいというものがあるから大黒様を拝むとですよ。まあ言うならそうだろうと私は思います。(笑)、どうでしょうかね。
 佐田さんが言われます、ね。先生、有り難いことにはもう最近、ね、もう主人の信心が歯がゆうして歯がゆうして、お母さんと2人でもう、とても歯がゆい思いしよったのが、最近はもうそげな段じゃありません。私共の方がついていかなきゃいけません。それが親先生がもう今日限り言うちゃあならんと仰った。ただ言うだけだ。もうそれこそ手のひらを返すようにおかげを頂いた。
 もうそれこそ、以前のお父さんとはもうまるきり違ったことを言われなさる、ね。最近、佐田與の本店の方の専務の方、やっぱり従兄弟さんにあたられる方。その方をお導きして毎日、お参りになります。もうそれを、おかげを頂いていく、佐田さんと2人でお参りして来て、おかげを頂いて、助かっていく姿なんですね。もうどうしてこの人はこげん分かっていくじゃろうかっちゅうごと分かっていく、ね。
 その助かっていく姿を見て、もうその佐田さんお父さん恭造さんの方が、もうとにかく自分自身の方が有り難うなっていく、ね。この調子でいきゃあまた昔の佐田與になれれる、ね。大きなおかげを頂かなきゃならん。けれども今度の佐田與は、ね、信心が中身になるところの「さだよ」なのだ。巨万の富を本当に積もらして頂いて、そして、御用と言うたらなんぼでもどれだけのことでも、「はい」とこう。
 それこそ還元のできれるおかげを頂かにゃならんぞと言うてお父さんが申します。大きな還元がでけるおかげが頂かにゃいけん。て言うから私が申しました。その巨万の富じゃいかんよって私。お父さんに帰ってから言うときなさい巨万の富じゃいかん、ね。無限の富でなからにゃいけん、無尽蔵の富でなからにゃいけん、限りがないものでなからにゃいけん、ね。その話を聞いただけでも成程。
 合楽の人達は桜の花的だなあと思うでしょうが、ね。それでその無限の徳いわゆる無尽蔵の巨万の徳というでなくて無尽蔵、ね。無限の財というものがです、限りのない財宝というものがです、ね。本気で梅の花の信心がでけ、または柳の信心ができさして頂いて初めてそこに、桜の花のようなおかげが頂かれる、ね。「梅の香りを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい」というこの三体を、ね。
 もうミックスしたところの信心。ところが性情が桜の花なもんですから、どうしてもそこんとろに、ね、やえもすると、言わばおかげを頂くと、もう言わば思い上がりができておる、慢心ができておる。これではせっかく、桜の花のようなおかげを頂いてもあっという間に散らしてしまうようなことであってはならないから、今こそどのようなおかげを頂いても狂いません、ね。もう狂うまいと神様が、ね。
 思うて下さり、言うて下さるようなおかげを頂いておかなければならないということになる。私は今日ただ今のご祭典を拝まして頂きながら、驚いたことがある。久留米の初代がまだ華やかなおかげを受けておられる時分。ある時に小森野、ね、(すうけいじょう?)に野菜どこの村です、小森野という村があります。それからもう、それこそとてつもない大きな大根のお供えがあった。
 もうちょいとこげなおかげを頂いてから、こげな大根を作り出しました。どうぞお供えして下さいと言うて持って来た。修行生の先生方もこれはもうお供えしたら見事じゃろうと、ね。これはもう、皆がどうしてびっくりするじゃろうと言うてその、言いよった。ところがお祭りがすんでから、その大根が出てこないから、ある先生が、先生あの大根な、あらどげんしなさいますかって聞いたら、あれは私が細々切ってしもうちから後ろの方にお供えしたって言わっしゃった。
 その大きな大根を細く切ってから、折角持って来とるけんで、後ろの方、めっからんところにこうやってからお供えをしたって言われた、ね。それがまあ一個大きなのが出てきたら、ほうあの大きな大根誰が作らっしゃったじゃろうか、誰のお供えじゃろうか、あれは私家んとでございますと言うたら、もうその氏子がおかげを落とすということ、慢心で、ね。神様のおかげでおかげ頂いたじゃなくてから。
 自分がこげな大きなんと作り出したと言うその心が神の機感にかなわんから、私は切り刻んでから後ろの方にお供えしとると仰ったそうです。私はそれと同じようなことを今日、感じたです、ね。私先程神饌さして先生方しよりましたけん入ってから、あっちゃこれはあんた昨日のお供えじゃなかのと私が言うておる。お鏡様にもうビール昨日と同じもんじゃけん。冗談のごと、これは月次祭できとったのでございます。
 昨日とはこれでございます言われてから、成程また沢山集まったもんだなあと私は思うたんです、ね。そういう中にです一番あの大盛りに銀色の箱の小さい箱のお供えが裏の方にお供えしてあった、お酒の裏の方へ。ところがその久富先生がそれをお供えしなさる時に、これが英国のジョニウッカという、ジョニウォッカというウイスキーなんです。しかも黒レベルの、まあこ一万円はするでしょうねどんなに安くても。
 ですからそれをお供えしたいと思ったけれどもその他に釣り合いがないものだから、仕方がないから、正面にこうして置いとったど、後から誰かまた嘉郎さん達が全部お供えし直した大盛りを。そして出て来る時にはその一番目に付かない後ろの方へ置いてある。だもんだから久富先生がこげなよかつば後ろにどん置いてからってまた前さんこう置きなさった、ね。これあんた一万円がつもつすると言わんばっかりにしてから。(笑)
 そしたら秋永先生が横から来てから、そしてまた向こうの方の一番分からん所へ持って行った。はあこの人達はこげなこと知ってるはずもないのにね、私はこれをお供えされる時の、その例えば言われたことが非常に心にかかっとったんです。先生これはあのジョニウォッカでございます。あの黒レベルでございますってもうそれば念を押されたです。それはジョニウォッカじゃろうが黒レベルじゃろうがそげん、神様にお供えするとはですね、ね、はあここんところが神の機感に叶わんと仰る、ね。
 だからそら私でも本当言やあ、成程そういう、ね、大変な有名な立派なものですから、お三方の上にでものせたい、いやのせられんなら正面に飾るようにしてお供えもしたいのだけれどもです、ね、さあ今日の御比礼がそこなんです。そういうお供えでもどんどんできるようなおかげを頂いてもです、さあこれがジョニウォッカでございます、黒レベルでございますというようなことではね、いけない。
 石橋先生のその大根のそれを私はすぐ思わして頂きました、ね。そのことを知っておるはずはない、参りよったつを嘉朗さんなら嘉朗さんがお供えしなおしてから、一番後ろの方へ持って行った。はあ、その久富さん中身を知ってまた前さやんなさった、祭典中。それでもここで秋永先生がまたこれと持ってからまた一番向こうの分からんところの一番後ろの方へ持って行った、ね。
 しかしこういう生き生きした神様の働きをですね、皆さんが見たり聞いたりするのですから、成程それは決して慢心というわけじゃないです。慢心というわけじゃないけれども、それがおごり高ぶっておるわけでもないでしょうけれども、いや厳密にそれを言う時に、やはりこれはジョニウォッカでございます、黒レベルでございますと。黒と赤と両方あるんですよねジョニウォッカには。その黒の方が高いんです。
 そういう例えばことがですね、まあ皆さん目の当たりにごらんになったわけです。なぜかってそうしてんならお供えさして頂いた者がおかげを落とさんようになんですよ。その心が気に入らんというのじゃないです。切り刻んでお供えをなさるのは、それでお供えをした者がおかげを落とさんように、おかげを頂けるように、そう工夫をなさったんです。ここで私がそれを分からんから、神様が自然の中にして下さった。
 私は、もう本当にこれは、もう日々それを実感するのですけれども、ね、今日も1時からの昼の御祈念がございますから、善導寺の月次祭、親教会の。それで、早目に行ってから、早く行ってから、若先生と長女が、琴の御用を頂きますから、早く迎えにも行ってやらなん、私も早よ行って早よ帰らんならん。そこで、いつもより早よ行くというので、関さんにお願いしてから、いつもより早く、ここ御結界を下がって、関さんがみえるのを待っとった、ね。
 そんなわけでここをいつもよりも何時間か奉仕をする事が出来なかったから、私昼の丁度12時過ぎから、そして4時の御祈念まで私が奉仕させて頂いたんです。それはねもうそれはそれは不思議なとこですよここは。もうね私はまだ今でも厚いあの羽織を着ておるでしょう。ですから今日なんかやっぱり背中から汗がだらだら流れるぐらいにありました。薄物じゃない厚いのを着ておりますからね、羽織が、ね。
 所がね背中に汗を感じながら、それが段々段々有り難うなってくるんです。もう4時の御祈念をさして頂く時、ね、私拍手を打とうとした大体は拍手打ちませんけれどね、打とうとしたら神様から「合」の字を頂いた「合楽」の「合」の字を。もう打つもう早こう、早くもう神とものを言おうともう思うてるんだ心が。もう拍手打つひまなんかなか、好きなもんと出会った時にもうこうやって引っ張るごたっとと同じ事だ。
 もう拍手どん打つ暇がなか。もうそのまま神様との交流が始まる。そういう有り難くなれれる所ね。もう本当にここという所は不思議な所有り難い所と。さあところがです、ね、これがならお道の取次者たるもの、全てがそういうふうに有り難いかと言うとそうじゃない。もう一時でん座るごとはなかもう眠気がくる。もう立ってから行くごと。もう御結界だからいつも開けっ放しと言う様な教会がもう今沢山あります。
 参っても人ができなさらん。ていうなふうな所が多いんです。それは結局ならここが有り難いもの不思議な所じゃという事をまだ知っちゃなか訳なんですよ。んならそのここは不思議なとこじゃあるなあ、有り難い所じゃあるなあという事を分かる為にはです、私が泣く泣く神様の前で「はい」と言うてきた時代のことを思い出すわけです。座っとけちゃあはい、ね。初めの間はとても。
 ランニングシャツ一枚、寝巻き一枚でもお取次はできる。お前が取次いでやる、それがお取次じゃ。お前のおるところは御結界。そげん仰ったですよ、私には。だからそんなら私んところでと思うて引き受けたと、言うなら。ところがいよいよ難儀な問題が起きてきてから、その、ね、例えば、上滝さんが亡くなりました時なんかはです、もう神様の前で切腹しようごとあった。
 あそこまで助けて頂いて、ね、それけん、さあその時はもう神様からどげん、どげんこちらが無理を言われたっちゃ「はい」と言うぐらいな気持ちができた、ね。もうこちらから、もう朝から4時の金光様のお引けの時間までは、もう小便にも立ちませんという、制約をしたんです。私はその時から血の小便するようになりました、ね。それこそ泣く泣く辛抱でした、ね。
 そうしたらその辛抱させて頂くということが有り難うなってきて、ここはもう誰にも渡されんというようなおかげを頂かせてもろうて、ね。しかも有り難い、有り難いところじゃある、不思議なところじゃあるということになってきた。だから取次者の全てがね、そういう気持ちを開かなければ本当の御結界の奉仕者としては、私は不向きだと私は思う。その辛抱をしぬかなければ、ね。
 と言うと同じようにです、例えば皆さんがね、皆さんが合楽のお広前というところは不思議なところじゃある。有り難いところじゃあるとお参りをする度にそれを感じさして頂けれるような信心に、ひとつどうでもなって頂きたいということです、ね。それがだんだん、稽古ができていきよる。今のここの合楽のお届け帳を見ますと、もう三回どおりずつぐらい、お届けが沢山あります同じとが。
 三回参って来る。朝の御祈念に参って来る、昼の御祈念に参って来る、夜の御祈念に参って来る。月次祭の時にはまた参ってくる、ね。福岡、久留米全部そうでしょう。全部が皆そうなんです。昼の御祈念に参るごと、方は、ほとんど朝の御祈念に参って来よるです、ね。そういうような修行の中からです、ね。とにかく、だから自分でこのお広前を不思議なところじゃある。
 有り難いところじゃあるということは自分でしなければいけない。もう帰ったらもうそれこそ、もう早よ帰るごたるという人達がおる、ね。御理解も頂、御理解を頂いて帰りゃいいのにと思いよる人がある、ね。それをね、まあだここで有り難いところで、ただおかげが頂けるところだけが分かっとる。まあまさかん時には、これでおかげ頂くことだけは分かっとる、ね。
 けれどもここがもう有り難うしてこたんという所になってない。このここのお広前の言わば、皆さんの稽古場であるここがです、懐かしゅうて慕わしゅうてというものじゃない、ね。そのためにはお互いひとつ工夫をしなければいけん。ここまで来る間に、ね、もうあの東脇殿に入ったら心がしゃんとするとか、大祓いの声を聞きよったら心がじんとするとか、とにかくお広前合楽のお広前という所は不思議な所じゃある。
 有り難い所じゃあると言う様なですおかげを頂く、皆さんがそういう信心にしなければならない。そういうお広前にしなければならない。取次ぎ者がここは不思議な所じゃある、有り難い所じゃあるということを取り次ぎ者自身がしなければならないように、ね。そういう信心ができてこそです私は、ね、華やかな桜の花のような信心、いや桜の花のようなおかげが約束されるんだと思うのです、ね。
 そしておかげを頂いた暁のこと、ね。もうどげな事があっても慢心どんする事じゃありません、思い上がりどんする様な事はありませんと言うて、んなら是で決め付け決め付け、信心辛抱の素直な信心をさして頂いてきておっても、愈々握るものは握るというか、頂くものは頂いたまあおかげを頂く。佐田さんじゃないけれどもそれこそ巨万の富を。それが巨万の富が無尽蔵の例えば、お徳を受けられてもです。
 そのお徳というものがです、慢心をもったら思い上がったら、ね、それが一夜の内に散ってしまう様な事にもなるという自覚というものをね、しっかり是に作っとかにゃいかん。そして桜の花の様なおかげを頂くという事は絶対のものじゃなければいけない。いわゆる絶対信である、ね。そこんところが絶対信じられる所のまたいや信じて、お互いの信心を進めていかなきゃならんと思うのでございます、ね。
 「思い上がるな、慢心するな」、ね。「おごる心はおかげの破滅」と、ね。そういう例えば、まあ言うならね、本当にそう慢心でも出るごたるおかげを頂いてみたいですね、やっぱり、ね。ですからね、そういうおかげを絶対のものとして頂いて、そしてその内容が梅の花の辛抱であり、梅の信心であり柳の木の素直さであり、柳の木の信心をです愈々身をもって自分のものにしてしまう。
 桜の花だけが自分のものじゃない。梅も桜も柳もその全部が自分のものになってしまう。いわゆる「梅の香りを桜にもたせ」です。しだれ柳に咲かせてみせようというようなね、私は信心をお互いが頂いていかなければいけんと思うのでございます、ね。どうぞ、せっかく、夏期修行に、もう半ばに、もういよいよ暑さになってまいります。もう今日で10何日でしょうか、ね。
 1時の御祈念がもう本当に、有り難い雰囲気の中に日々、続けられております、ね。そういう信心をさして頂いてです、今日私が言う、お広前というところは、不思議なところじゃある、有り難いところじゃあるという、おかげを頂かなければです、桜の花の信心はおぼつかない。桜の花のようなおかげは頂けない。まずここを通らずしてから頂くということがおかしい。
 ここを通らして、通るとこを通らして頂いて。そして尚且つ、私共のあっぱ本命はやはり桜であるから、この柳と梅がこれに、信心辛抱によって頂かしてもろうて、辛抱する喜びを分からしてもらい、素直にならして頂く有り難さというものをいよいよ身に付けていって、神様の願いでもあるところのです。華やかなおかげを頂いていきたい。その内容を今日は申しました。
   どうぞ。